未来の国際人を育む教育環境

私がスイス留学会社を現地スイスで2014年に設立したきっかけは、娘がボーディングスクールに通うことから始まりました。娘がスイスの中学を卒業する際、近くの公立高校は風紀があまり良くないという理由で、主人がボーディングスクールを選択肢として提案したのです。主人の大学時代の友人が卒業した学校をきっかけに、私たちはフランス語圏とドイツ語圏のボーディングスクールを訪れました。

その時は私も一緒に学校を見学し、担当者と会うことになりました。その学校は、山間の学校で、標高1750mにあるリツェウム アルピナムです。創立1902年、凡そ55か国からの子供達が集まっています。正直、私はそれまでスイスのボーディングスクールというものを知らなかったのですが、様々な国から生徒が集まる国際的な環境という点で、娘には適しているのではないかと感じました。担当者と私達を交えての面談で、双方とも良さそうだという雰囲気になり、その後、入学に必要な書類を準備し、娘は高校からリツェウムへ行くことになりました。

娘は、この学校での教育を受けることになり、英語とドイツ語のセクションで学ぶことが決まりました。寮は英語が主要な言語で、異なる文化を学ぶことができ、国際的な友人関係を築くことができました。

リツェウム アルピナムでは、学業だけでなく、スポーツや音楽の活動も盛んでした。娘はクリケットクラブに参加したり、声楽のレッスンを受けたりしていました。日本からの生徒は少なかったものの、次第に日本人も入学するようになり、多国籍な環境で学びました。

学校生活は多彩で、選択制の旅行や必須の課外活動がありました。例えば、カナダのユーコン地方へ犬ぞりをしに行く旅や、ウィーンでの舞踏会、ジュネーブ国連本部での模擬討論など、豊かな経験が娘の成長を支えました。時々、週末になると、色々な国の友達が家にやって来て、私はお寿司を作ってあげたりしていました。高校生も上級生になると、週末に外出し、皆でチューリッヒへ行ったり、イタリアへ出かけたりしていました。

この様な環境から、娘は大学の休暇中も、この時の友人宅へ泊まりに行って、ヨーロッパへ旅行する度に、飛行機だけ予約して友人を訪ねていました。トルコの友人宅へは数人で出かけて行き、彼女の両親が所有するクルーザーに乗船してバーベキューをしながら黒海を渡り、彼らの別荘へ遊びに行ったり、楽しそうでした。又、ブダペストの友人宅は、ご両親が経営するホテルで、広いお部屋に泊まらせて頂いたり、各地にネットワークが出来上がっていました。

娘が未だ寮にいるうちに、主人の東京転勤がありました。その頃、私は彼の滞在先マンションを探し、東京とスイスを2か月毎に往来していました。すでにスイス在住20年の頃です。東京とスイスを往復する日々の中で、私自身が強く感じたのは、首都圏の子供達は、その多くが「学校、部活、塾というサイクル」の中で生活していて、私にはワンパターンの様に映り、少々疲れている表情に見えました。「そうだ、日本の子供達、とりわけ、将来的に親のビジネスを継承するような子どもたちこそ、世界から日本を見る視点を養い、英語と日本語のしっかりした回路を持つ人材が重要だ」と強く思いました。この時、自分の使命に変えて、スイスで留学のお手伝いとサポートをすることを決心したのです。

元々、スイス現地の日系及び米系銀行で働いて来たことで、お金の知識があったこと、ジュネーブの独立行政法人での勤務経験から、ドイツ語圏とフランス語圏両方で働き、住んでいたことで、スイス全体を把握していたことは、この事業にプラスに働きました。現地の文化や教育システムに精通した私は、スイスのボーディングスクールや留学サポートの手助けを行うことにしました。これまでの経験を生かし、スイスの教育環境の素晴らしさを日本の子どもたちに伝えたいという使命を胸に、留学支援を行っています。

中学英語教師だった母の影響と国際交流の重要性

ここで私の母が英語教師をしていた頃の国際交流や留学ついて、当時の様子について少し触れておきたいと思います。

私の母は、昭和初期に生まれ、34年間公立中学の英語教師を務めました。彼女は10代で戦争を経験し、静岡大空襲を目の当たりにしましたが、その後も教育に熱心で、多くの交換留学や国際交流に関わってきました。そんな戦争を経験した母が、学校での英語教師としての顔以外にも、子供達を引率し交換留学として、米国やカナダを20回程往来したり、中学校教師の枠を超えた様々な仕事をしていたことを時代背景も含めて書き留めておこうと思います。

日曜日には、学校を開けて、生徒に英語スピーチコンテストの指導をしたり、県教育委員会の仕事では、県一斉中学英語試験を作ったり、提携していた米国姉妹都市の交換留学生の引率をしたり、生前はいつも多忙な母でした。退職後は、提携先の米国の高校で日本語を1年間教えたり、あるいは、NY.ニュージャージー州で半年間、ライシャワー財団の日本文化交流ボランティア活動に参加し、ホームステイしたこともあります。

 私が小学校3年の頃、日本は万博で盛り上がっていた時期に、母は文部省の試験に合格して、夏休みに1か月間米国へ留学(第二言語としての英語教授プログラム)した経験があります

母は教師の仕事を超え、県教育委員会の業務や米国・カナダとの交流を深める活動を行いました。母の行動は、私にとって「留学とは必然的なきっかけが必要だ」という思いを植え付けました。このような国際交流や海外経験を通じて、私は自分のビジョンを強く確立しました。

左は私のベビーシッターの叔母、私、宣教師の方、右が母。母の前は曾祖母。

私が高校2年の頃、未だ70年代後半ですが、家族で3週間のアメリカ横断旅行をしたことがあります。母はすでに沢山の米国の知人がいたので、NYでホテルに数泊した以外は、すべて母の米国人の知人宅へ泊まりました。いわば、「手作りホームステイ」です。

シカゴのイリノイ大学の教授に会った時には、その教授が私に「イリノイ大学へ来たらいい」と薦めてくれて、私は、ただ「はい、そうします」と返事をしていました。しかし、母親があまりに忙しい人だったので、日本へ戻ってみると、すっかりそんなことは忘れてしまい、私もとりたて、留学するという必然性がなかったので、それは実現出来ませんでした。

 つまり、そこでわかるのは、留学とは、「なんらかのきっかけがないと、なかなか実現しないもの」なのです。普段の生活の中で、そのきっかけに出会うか、誰かが言ってくれなければ、何も起こらない、留学のチャンスはありません。

そういう母の国際交流という環境が、その後、直接留学会社の起ち上げに影響を及ぼしたわけではありませんが、知らず知らずのうちに、私に影響を受けていたのかもしれません。ここで私が思うのは、日本での国際交流と、実際に、海外で自分が外国人になって住んで体験する海外長期滞在とは全く異なるということです。日本語を使えない世界で、外国人と肩を並べる為には、「なるべく若いうちに海外を体験する」べきなのです

スイス留学の魅力と醍醐味

スイスでの留学は、子どもの成長を促進するための理想的な環境を提供します。もしお子さまに留学を考えているなら、目的を明確にすることが重要にしてみてください。

・夏休み中に、英語をたしなむ程度、ホームステイ先の人と交流する程度でいいのか?

・我が子には、自分で考え、生きる力を育んで欲しい。その為に留学させたいのか?

・歴史文化が豊富なヨーロッパの環境に触れさせたい。将来、国際性を身に着けてほしいか?

・英語で考え、英語で話す能力を身に付け、将来のリーダーを目指してほしいのか?

特に、事業継承が念頭にある場合、そして、海外拠点進出や海外と関連するビジネスの可能性があるのなら、スイスボーディングスクール留学こそ理想的に合致しています。あるいは、将来、医者や弁護士といったリーダー的職業を目指し、世界を広く見聞させておきたい場合も然りです。

なぜなら、各国から来る生徒の家が、富裕層クラスの家庭からの子供達が多く、つまり、世界中の人脈ネットワークが一気に出来てしまうからです。孫さんがヘッドハンティングする必要がありません。

あなたのお子さんの留学が、オーストラリアのカンガルーと遊ぶ様な国際交流型短期ホームステイ留学なのか、はたまた、将来を見据えた寮制国際教育の留学なのか、じっくりと考えてみてください。

2024年 12月 

近藤 美穂
スイスジャパンサポート創設者

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