東洋経済オンラインでは、時々興味深い記事が掲載されています。
勉強しても日本人が英語を出来ない根本理由(2016年9月20日付)というタイトルの昨年度の記事からです。
それによると、”文部科学省の中央教育審議会が公表している2020年度からの入試制度改革では、「面接」「集団討論」「プレゼンテーション」などを入試に活用する方針が打ち出されており、入試だけではなく、就職試験、セールス、社内外のプレゼンなどなど、1対多のパブリックスピーキング力がますます必要とされるようになっている。”とあります。
しかしながら、日本の英語教育において、”話す”という機会が非常に少ないと指摘しています。これは裏を返せば、話せる英語教師がいない、ということもあります。
余談ですが、日本の大学は、入ってしまえば、遊びに行くところ、と未だにそんな感じらしいですが、こちら、スイスの大学は、入るのもしっかり勉強しないといけないが、一端入って卒業したいものなら、真剣に勉強していないと、半分が落されてしまう、大卒は凡そ10%という狭き門です。
つまり、日本の大学の場合も、教師が緩いから学生も甘いということが言えるでしょう。
元のテーマに戻りますが、前出の記事の中で、”「正しい答え」を教えられ、それを暗記する教育が染みついている日本人は、「正しくない」答えを極端に恐れる。人前で発言して、間違っていたらどうしよう、バカにされないか、つねにそんな気持ちが先に立つ。コミュニケーションに「絶対正解」はないわけで、日本人の生真面目な「正解へのこだわり」が、パブリックスピーキングの最も大きな足かせとなってしまうのだ。”というのは、まさに昔から同じ教育現場に見られる日本の状況です。
著者は、最後に、”日本人の英語がなかなかうまくならないのは、そもそも話す力を養う教育が欠落しているからだ。話す力は、生まれつきのものでもないし、何もしなくても身に付くものでもない。英語云々の前に、まずは、日本語で、人前でしっかりと話すためのルールや基本形を学ぶ教育が必要ではないだろうか。”と投げかけていて、元々、人との議論を気軽に出来る環境がないということが言えます。
よく考えて見ると、インテリ層の外国人から見た日本は”社会主義的共産主義に近い。”と言われりしますが、それは議論をして、民衆が国を変えていくという所が機能しないという、根本的な土壌にあるからかもしれません。
日本は、元々単一民族の国。言わなくてもお互いを理解出来るという暗黙の了解が根底にあるせいか、こういうディスカッションの時間が学校教育の中に取り入れられていなかった経緯はあると思います。
今の世界の動きから、個人的に思うのは、日本の子供達は、これからもっと外国人教師が入って、プレゼンやパブリックスピーキング力をトレーニングしていくしかないだろう、という感じがします。
近藤
スイスジャパンサポート