昔のアルバムをふと覗いた写真から、私がこの仕事を始めた運命の糸を見つけました。
私の母は、もう亡くなりましたが、34年間中学校の英語教師をしていました。

彼女は、教師の他に、教育委員会の仕事、交換留学生の仕事、姉妹都市の仕事もこなして、私が高校生の時分には、私と顔を合わせる暇もない程、身を粉にして働き、まさに高度経済成長期に生きた、昭和の人でした。

私が赤ん坊の頃から、家には外国人宣教師が遊びに来たりしていました。昭和一桁生まれで、空襲を体験した母にとって、当時の日本は、英会話学校もなく、英語を習うには教会の宣教師から習う以外にありませんでした。

あとは、地元の有名なホテルへ行って、外国人を見つけては、会話の練習をしていたらしいです。
母には、米国にペンパルフレンドがいて、毎年師走になると、居間には海外からのクリスマスカードが、50枚程、飾られていました。

今思うと、母の米国の友人・知人達は(彼らは、学校の教師、大学教授、弁護士等)、古き良き米国人だった様に思います。節度やユーモアがあり、子供の私にハンドメイドのプレゼントをしてくれたり、、、昔気質のアメリカ人を感じさせる雰囲気がありました。

私が米国へ留学した時、母の米国人の友人達に会い、それを感じました。

左は私のベビーシッターの叔母、私、宣教師の方、右が母。母の前は曾祖母。
私が小学生の頃、母のペンパルで米国人の亡きパーマーさんが作った、手作り人形や、クリスマスオーナメント等、アメリカから海を渡って届くプレゼントに、子供心に嬉しかったのを覚えています。

高校生の夏休みに、家族で3週間、アメリカ横断旅行に出かけました。

泊まった場所は、ニューヨークからロサンゼルスまで、母の知り合いの米国人宅で、転々としながら、今思えば、まさに”自家製ホームステイ”をしながらの旅行でした。

旅行中、シカゴへ立ち寄り、母の知人でイリノイ大学の教授に会った時、その教授が、私に、「アメリカの大学へ勉強しに来たらいい。」と言われたのを覚えています。

高校生の私は、「はい。」と答えたのですが、その後、実現には至りませんでした。あの時、母がもっと積極的に勧めていたら、すんなりと、留学していたことでしょう。

やはり、10代の留学は、親の勧めが大きいので、機会がないと、本来思いつかないものです。地元の高校に通学していた私には、そこへ行かなくてはならない必然的理由もなければ、絶対行きたいというアイデアも沸いてこなかったからです。

母は、アメリカだけではなく、カナダにも日本からの交換留学生や姉妹校の生徒を連れて、何十回と引率していたので、カナダにも沢山知り合いがいました。私が大学生の時には、カナダ人の知り合いの家に泊まりに行ったりもしました。

母の時代は、日本からの留学生は未だ殆どなく、ましてや、女性がずっと外で働くようなキャリアウーマンもいない時代です。

彼女は、仕事にも熱心だっただけでなく、英語教師の為の1か月英語研修に合格し、奨学金をもらって渡米し、その後、80年代にはイギリスの大学へ短期留学を経験しました。

当時を考えると、父は寛容だったと思います。
父も教師をしていたので、母が短期留学出来たのは、学校の夏休みだけでした。

こうやって、私の昔のアルバムの写真から、私の育った身近な環境が、実は、現在私がお世話をしている日本からの留学生の仕事に、知らず知らずのうちに、結びついていることに気づかされました。

数年前、私達の知人、ロス郊外に住むバーバラからスイスの私宛に、オリガミや切り絵が入ったかわいらしい箱が届きました。

バーバラは、母の長い付き合いだった米国の友人の一人で、カリフォルニアの老人ホームへ入居する前に自宅を整理していたら、「貴方のお母さんが、貴方が小さい時に作ったものをこうやって、よくクリスマス時期に送ってくれたものよ。これはあなたに返します。」と書いて、私に送って来たのです。

母は、幼少期私が作った絵やオリガミを米国人の知り合いに、せっせと送っていたなんて、全く知りませんでした。母の子への愛情が感じられる丁寧な英文も見られて、当時の母の息遣いが感じられ、驚きました。母は、国際交流という言葉が未だ一般的になっていない時代から、まさに草の根国際交流をしていたと思います。

母と当時高校生の私は、親子3代にわたり、アメリカ人と長い間文通していました。

母が退職後には、米国の姉妹都市の関係で、1年間高校へ日本語教師として働いたり、ニュージャージー州で半年間、日本文化を伝えるライシャワー財団のボランティアをしていました。

彼女の米国の高校での日本語教師としての仕事は、かなり前の話ですが、当時教壇の下にはボタンがあったそうです。

身の危険を感じたら、教師が押せば、警官が駆けつける、という話を母から聞いて、米国の学校事情が如何に日本と違うかを思い知らされました。

米国は車社会なので、スイスの様に、隣村へ歩いて行けるなんていう事は考えられません。気軽に一人で、電車に乗って旅が出来るスイスを母はとても気に入っていました。

晩年の母は、スイスの私の家を拠点にして、近隣のヨーロッパの国々を旅行し、欧州の文化歴史、そして、アルプスの自然、スイスの豊かさやゆとりについて、いつも感嘆していました。

彼女は、2018年4月20日に介護施設で永眠(満85歳)しました。

現役時代の母は、エネルギッシュで、国際交流に中学校教師の枠を超えて貢献していたと思います。

近藤 美穂
スイスジャパンサポート創設者

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