高校時代の米国滞在と元英語教師の母の影響~私の思い出の記憶から

母が亡くなって数か月してから、ふと蘇ってきたことについて、ここで書きたいと思います。

2018年春に亡くなった母は、生前、公立中学校の英語教師だけではなく、県教育委員会の仕事、姉妹都市や姉妹校の仕事と、いつも仕事に邁進していた、当時では珍しいキャリアウーマンでした。

県一斉テストも作っていたので、筆記テストだけでなく、口頭の聞き取りテストも自分で録音し、その後の答え合わせをローカルテレビに出演して、解説していたのを覚えています。

彼女の交換留学生の引率の仕事では、中学校生徒を連れて、米国やカナダへ合わせて20回以上は行っていました。

また、私が小学校3年生の夏休みに、母は、奨学金をもらって、英語の先生の為の英語研修に、1か間短期米国へ留学をしたのを憶えています。米国1ドルが、360円位の時代です。

その間、昭和ひとケタの父が、慣れない家事をしたりしたのも、子供ながらに覚えています。父は彼女の仕事に理解ある人だったので、「行って来なさい。」と賛成していたものの、洗濯物を干したり、大変そうな様子でした。

普段の母は、朝早く学校へ赴き、夜遅く帰宅したりしたので(昔の先生は、当直もあり、職員旅行、職員会議、修学旅行、部活と、彼女の人生の大半=仕事に忙殺されていました)、1日のうち、母の姿を見ない日もありました。

そんな中、私が高校2年の夏休みに、家族で3週間のアメリカ横断の旅行をすることになりました。

米国で私達家族は、私と母のペンパルに会ったり、、彼女の知り合いや友達のアメリカ人宅へ数日ずつ泊まりながらの旅です。

母は、幼い頃、戦争を体験して(空襲時に妹を抱いて、防空壕へ逃げたと言います)、英語の教師になったわけですが、当時、今の様な英語スクールはなく、英語は直接宣教師から習ったり、地元一のホテルに通い詰めて、外国人に話しかけることで、英会話を習ったと話していました。そこで、ペンパルや友達が出来て、この米国横断の旅が実現しました。

それだけではなく、交換留学先の学校の知り合いの先生の所へも、足を伸ばしました。

今ほど外国人と接するのも簡単ではない時代でしたが、毎年クリスマス時期になると、米国やカナダから彼女宛てに、50通程のカラフルなクリスマスカードが届いていました。

アメリカ横断の旅の話に戻ります。

今思えば、エージェントが留学を企画して、参加する子供達を募集する代わりに、母がホームステイを自分で企画していた様なものです。

彼女の米国人の知り合いには、中学の教師だけではなく、、大学教授や弁護士、市長などもいて、幅広いインテリ層の人がいました。

イリノイ州へ立ち寄った際には、母の知り合いのイリノイ大学の教授に会う機会があり、彼は私に「大学へ来たらいい。」と言われました。その時、私は、「はい、ぜひ。」と答えてはいましたが、結局、その後、母が何もしなかったことから、それは実現しませんでした。

私が自分から行きたい、としつこく言っていたら、違ったのかもしれませんが、留学とは、特に必然性を感じなければ、また親が子供に強く勧めなければ、中々実現には至らないものだ、というのがここで分かります。その時、母が勧めていたら、今の私は違った道を歩んでいたと思います。

アメリカの旅は、つまり、自家製ホームステイですが、居間のソファをベッド代わりに寝たり、庭にサボテンだらけのテキサス州に住む、私と同年の自分のペンパルの家で過ごしたりもしました。その時、自分の年齢に比べて、アメリカ人の女の子は、何とませているのだろう、と感じたものです。

「これから、キャンプへ行くための準備をしているの。」、と言われて、見ると、寝袋とかではなく、スーツケースにドライヤー等を詰めているのを見て、当時、日本ではそんなキャンプの荷物準備は考えられなかった為、進んでいるアメリカらしいと感じたものです。

留学エージェントのホームステイと比べてみると、母の知り合いを転々としたため、どこへ行ってもウエルカムで、ホテルには殆ど泊まりませんでした。

そんなホームステイ的経験をした後、私が大学生になると、今度は、母が第二の留学先として英国を選び、再び短期留学へ旅立って行きました。

私自身は、20代で、米国のカリフォルニア州へ留学しますが、その時も母の知り合いのアメリカ人達にお世話になりました。

こういう母を持ったことで、自分が今エージェントをしているのは、無意識にせよ、環境が影響しているのかもしれません。

母の退職後、私が朝日新聞に掲載されていた、ライシャワー財団が主催する「日本文化ボランティア派遣募集」をみつけ、母の為に応募してみました。母がそれに選ばれたことで、半年間、ニュージャージー州で、ホームステイをしながら、日本文化を伝えるボランティアもしました。

しかし,母はそれにも飽き足らず、今度は姉妹都市のオマハの知り合いの先生からの紹介で、米国の高校で日本語教師の仕事をしに、一人で1年間アメリカに滞在しました。

その後、私がスイスへ住むようになると、母は、毎年我が家に来ては、まるで、”自分の別荘の様に”、1か月くらい滞在していました。時々、父も一緒でしたが、殆どは一人で来て、気軽に、スイスから色々な場所へも旅行していました。

老後は、スイスの話を書いた自伝まで出版して、知り合いに分けていましたが、地元静岡の書店の店先に置いてあるのを見かけたことがあります。

戦後の日本で、モノがない母の時代では、如何に英語を習得するのが大変だったろうと思います。静岡の教会へ通い詰めて、宣教師から多くを学んだらしく、恩師と言われる宣教師に会いに、カナダへ立ち寄ったりもしていました。私が赤ん坊の頃、宣教師に抱かれた自宅前での写真が今でも残っています。

私が6、7歳位の時は、家族ぐるみの付き合いがあった、米国人夫妻が家に来た時の写真もあり、少なからず覚えています。

そして、私が小学生の時、日曜日に母が日直で学校へ行くというので、一緒に付いて行った記憶があります。そこで、母は、英語のスピーチコンテストに出る中学生の子にアドバイスをしていました。

今思うと、当時、英語を自力で実践習得していった母の努力が、感じられます。現役時代はエネルギッシュだった母ですが、晩年は病気に悩まされてました。

数十年前に、家族ぐるみで付き合っていた米国人のバーバラが、カリフォルニア州の老人ホームへ入居する前に、「家で整理していたら、見つかったから、あなたに返すわ。」と言って、米国から私宛に小包みを送って来ました。小包みを開いた途端、若かりし母の愛情に満ちたものが、感じられました。

それは、私が幼稚園から小学校低学年の頃、描いたり、作ったりしたオリガミや切り絵の綺麗な工作の品々でした。どうも母は、米国人の友人知人らに、自分の手紙を添えて、自分の子供の作品をせっせと送っていた様なのです。それをもらったバーバラは、母の私への愛情を汲み取っていたそうです。

自分の子供に対しては、育児もままならない程、あまり接する時間さえない、職業婦人だった母ですが、そんな当時の母の子供への愛情が、米国人から届いた箱の中から、数十年経って感じられたのは、遠い昔の懐かしさも運んでくれて、不思議な感動さえ覚えた出来事でした。

 

以上、私の母、昭和生まれの元英語教師と、彼女の米国人との長い草の根交流のお話、でした。

 

スイスジャパンサポート

近藤 美穂